ミツワ石鹸物語

時は万延元年(一八六〇年)。黒船来航から七年。江戸は日本橋橘町にて丸見屋創業、後のミツワ石鹸は当初この地で化粧品・装身具の問屋として誕生した。

初代三輪善兵衛は進取の気性に富み、上等の舶来品を数多輸入販売する傍ら、「日本人の手による佳き製品を」との志強く、その想いが後の石鹸づくりに結実していく。

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「1853年 黒船来航のようす」

 

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「現在の横浜にて『生麦事件』発生」

 
 

志を託された二代目三輪善兵衛が若干十六歳で家業を継いだのは、銀座に瓦斯灯ともり、鹿鳴館華やかなりし、明治十九年(一八八六年)。先代の想いをよく承け継ぎ、ものづくりに邁進。当時画期的と謳われた無鉛白粉を皮切りに次々と国産の化粧品を世に送り出していった。

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鹿鳴館の様子を描いた絵
久野明子著 「鹿鳴館の貴婦人」
表紙より

 

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「有害な鉛入りから画期的な無鉛に」

 
 

そして明治四十三年(一九一〇年)、研究に研究を重ね、自らの家名を冠して発売に至ったのが、ミツワ《枠練り》石鹸。研究の主眼は、「日本の水」と「日本人の肌」にあった。研鑽の甲斐あって、ミツワ石鹸は多くの人々に受け入れられ、瞬く間に国産随一の評価を確立していく。

ミツワ石鹸により、国産石鹸の地位がはじめて確固としたものになったといわれる。その登場は、舶来石鹸が日本市場から駆逐される端緒ともなった。

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「一世を風靡した『枠煉り石鹸』」

 

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「石鹸では国内随一に」

 
 

ミツワ石鹸の特長は、持ち、肌理、香り、とされる。生地が緻密で溶け崩れせず、持ち良く泡の肌理は抜群、品位高き香り最上。研究の賜として、日本人の繊細な肌に合い、日本の水によく適う。日本人による、日本人のための石鹸、と称揚される所以である。

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「とりわけ石鹸の研究に力を注ぐ」

 

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ミツワ石鹸の代理店となることは
大変名誉なことでした。

 
 

誕生以来盛名は衰えることなく、ミツワ石鹸は他の追随を許さぬ品質でいつしか高級石鹸の代名詞となっていった。その評価を一層不動にしたのが大正四年(一九一五年)開設、わが国初の香料研究機関『ミツワ化学研究所』である。香りの先端技術を仏蘭西から導入。自然香料園を父島、朝鮮半島、台湾に広く展開、素材の自給を図ることから始めた。

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「今も変わらない『石鹸の基本』がここに」

 

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「当時のミツワ化学研究所」

 
 

目指すは、日本人の感性を満たす理想の香り。それは二代目善兵衛の宿願でもあった。石鹸の需要に促されるようにして、香りの探求にも拍車がかかる。斯くして「香りはミツワ」の評価が定着。石鹸の香りといえば、ミツワ石鹸のあの香り、としみじみ懐かしむ人がいまだに多く存在する。

大正から昭和へ。石鹸づくりは三代目三輪善兵衛に承け継がれ、昭和初期から太平洋戦争前夜、ミツワ石鹸はすでに国民的ブランドとして広く全国に普及していた。

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「フローラ石鹸だけでもこんなに」

 

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「レイモンド・ローウィによる洗練されたデザイン」

 
 

戦後は昭和二十一年(一九四六年)、はやくも操業を開始。石鹸工場再開のニュースは、物資不足の時代に何よりの朗報として迎え入れられた。東京タワーが完成した昭和三十年代、ミツワ石鹸は昭和の黄金期を迎える。ナンバーワン、フローラ、ミツワソフト、薬用、ベビー石鹸、一世を風靡した枠練り。それぞれの香りとともにご記憶の方も多いことだろう。色よし、形よし、香りよし。気品にあふれた、日本を代表するその石鹸を懐かしむ人はいまなお絶えることがない。

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海外ドラマ「名犬ラッシー」のスポンサーはミツワ石鹸でした。

 

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現ミツワローズ石鹸